きっかけはタイ vol.14
タイから繋がるライフストーリー
齋藤 百合子 さん
◆大東文化大学 国際関係学部 特任教授
大東文化大学構内で
人身売買の被害女性が語る言葉に、
ひたすら耳を傾けた日々。
Q あなたにとってのタイとは?
私を育てて くれたところ
Yuriko Saito
大東文化大学 国際関係学部 特任教授。専門は開発学、国際協力、人身取引を研究。横浜YMCA国際事業委員長。東京生まれ。1984年にタイに語学留学。帰国後、女性の家HELPで人身売買被害者のタイ女性を支援。1990〜1999年タイ在住。会社勤務の傍ら、タイ女性支援のNGO、FOWIAで支援活動を行う。国際NGOや国際機関の調査で、日本やタイで被害者聞き取りを実施。帰国後、恵泉女学園大学、明治学院大学で働き、2020年から現職。
ー 80年代にタイ語留学なさった経緯をお聞かせください。
東南アジア青年の船(※1)に参加して、タイ人の知り合いができたこともあって、1984年に語学留学したのですが、それ以前に東南アジアに関心を持つきっかけになった出来事がありました。
YMCAのワークキャンプで訪ねたフィリピンの農村でのことです。植林活動をした翌朝、植えた木が全部引っこ抜かれていたのです。日本に憎しみを持つ、村人らの仕業でした。この村では、大平洋戦争のときに親や親族の誰かが日本軍に殺されたり、ひどい目にあったりしていました。私は大きな衝撃を受けました。戦争なんてはるか昔の話で自分との関係など微塵も考えたことがなかったですから。取りなしてくれたのは、私たち参加者のために料理を作ってくれたフィリピン人のこの村に住むおばさん。彼女だって日本軍に家族を殺されていましたが、その優しさと懐の広さにまた気持ちが揺さぶられて、東南アジアのことについて知りたい、二度と戦争が起きないような社会にしたいという気持ちが湧き上がりました。10代後半のことです。
タイ在住時代、ターク県メーソットで取材(1995年頃)
日本で人身売買!?
ー 留学後は?
約1年間滞在した後、東京で仕事をしていたのですが、日本キリスト教婦人矯風会の女性の家HELP(※2)の方から「女性シェルターにタイ女性が増えているから、話し相手になってくれない?」と軽い感じで声がかかりました。行ってみるとタイ女性たちの話す言葉はスラングが多かったけれど何とか理解できましたが、理解できなかったのが身の上話の内容でした。マレーシア経由で成田に着いて(偽造旅券を持たされていた)、迎えに来たブローカーに茨城のスナックに連れて行かれて、借金が350万円で、返済のために売春を強要された。客からもらうチップを隠して貯めて(店側に見つかると没収)、タクシーに乗って逃げて東京のタイ大使館に助けを求めた…と。何それ、どういうこと? 人身売買ってこれのこと 日本人には見えない、特に女性には見えてこない現実がそこにありました。そんなことから女性の家HELPでボランティアをすることになりました。  
ー いつのことですか?
1988年頃です。しばらくHELPでボランティアをしていたのですが、絶えず持ち上がる問題に対処しているだけでは、何も解決にならない。そんな折に知り合いのタイ人弁護士が外国で就労を望む女性たちが騙されないよう支援するFOWIAというNGOを立ち上げたことから90年にタイに。
バンコクの会社で働きながら週末はFOWIAという日々で、日本から届くタイ女性からの手紙を日本語に翻訳して日本のNGOに繋いだり、必要とされることをボランティアとして担っていました。
会社を辞めてからは、国際人権NGOヒューマン・ライツ・ウォッチの依頼で、日本のタイ女性人身売買を調査したり、国際機関の仕事で日本からタイに帰国した被害女性たちのインタビューを行いました。
被害女性の言葉に耳を傾ける
ー 調査から見えたことは?
被害女性はタイに帰国すると、日本にいたことを封印して生きています。人身売買の被害者であり、生きるためにやむを得なかったとしても、売春は「悪い女」のすることという社会的価値観があるから口を噤むのです。たとえ稼いで帰国しても、親に家を建てて大盤振る舞いするうちは村で「いい娘」と評価されますが、その時期が過ぎれば蔑まれる。また加害者と被害者が同じ村に住んでいて、加害者が村の有力者であることも多い。加害者を告発したために嫌がらせを受けた事例もあります。
人身売買の被害者で稼げずに帰国した人は「失敗」「惨め」という気持ちを抱えているので、日本でのことは言いたくない。でも、外国人の私が実態を少しは知っていると分かると話してくれました。そうして女性が語り出したら、ひたすらその女性が言いたいことに耳を傾けました。そこには事実も嘘も混在していたかもしれません。でも、封印していた自身のことを話すうちに、何が起きたのか、なぜそうなったのか、何が問題だったのか、整理できるようになるんです。自ら話すことは重要なキーポイント。そう実感しました。
日本での出来事を封印すると言いましたが、被害当事者どうしであれば事情は別。本当に分かり合えるのは同じ経験をしてきた女性たちです。人身売買被害者が設立したLive Our Lives (LOL)は、女性たち自らがエンパワーする組織づくりをしているタイのNGOで、創設者とは10年来の友人です。私は日本に帰国してから大学の教員をしていますので、学生を引率して、LOLの話を聞かせていただく機会を設けています。
LOLに学生を引率時、撮影協力した日本のテレビ番組をLOL側が見ていないというので、視聴しながら番組制作過程で変質していった箇所を代表にレクチャーしてもらいメディアリテラシーの学習に(2017年)
同じものを食べ、同じ言葉を話す
ー 大学では学生のフィールドワークに注力しているそうですね。
タイ、ミャンマー、カンボジアで行なってきました。タイの受け入れ先は何箇所かあり、タイ北部のパヤオ県ドークカムタイ郡のバンコクYMCAパヤオセンターもその一つです。この郡はかつて児童買春の被害者になる子どもが多いことで知られていた地域でした。パヤオセンターは貧困家庭やリスクの高い子どもたちの生活の場で、子どもたちはそこから地元の学校に通っています。子どもたちは様々な活動に積極的に取り組んでいて、学校でも一目置かれる存在だそうです。山岳民族の子どもたちも多く、彼ら独自の文化である刺繍をポーチなどにして活動費の一部に当てています。(※3タンタワン奨学金という支援制度もあります。
私は人身売買というタイのネガティブな側面を研究していますけど、学生にはまず、タイの文化の豊かさ、人の明るさ、地方ごとの魅力などポジティブな面を伝えるようにしています。その上でこんな問題もあるということを伝えて、共に考えたいのです。
私が10代のときに知己を得た鶴見良行さん(※4)は、タイを知りたいと言う私の手をとって「タイの人たちと同じものを食べて、同じ言葉を話して、タイの人としっかり向き合い、タイとつきあいなさい」とおっしゃった。その言葉が今も心にあります。
ー ありがとうございました。

※1 内閣府の行う青少年の国際交流事業の一つ。東南アジア諸国の港に寄港し、視察やホームステイ、親善交流が行われる。
※2 1886年設立の女性団体。運営施設に女性向けドメスティックバイオレンスシェルターの女性の家HELPと矯風会ステップハウス。
※3 パヤオクラフト〜子どもが未来をつくる〜https://youtu.be/0o21atyKWQU バンコクや横浜YMCAで販売(不定期)。問い合わせ:t102731@st.daito.ac.jp(齋藤百合子)。
※4 アジア学者、人類学者。1926〜1994年。著書に『バナナと日本人』『アジアの歩き方』『ナマコの眼』等多数。


 
パヤオセンターのアレンジで、チェンライ県のアカ族の村でホームステイプログラム。アカ族の衣装を着せてもらった(2018年)
サムットプラカーン県のNGOでミャンマーやカンボジア出身の子どもたちと交流(2019年)
取材・文・写真/ムシカシントーン小河修子
写真提供/豆生田伸一、劇団サザン天都
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