物心がついた頃から野球をしていました。3〜4歳頃からボールで遊んでいたように思います。僕の時代は『侍ジャイアンツ』や『巨人の星』といった漫画やテレビアニメが人気で、男の子たちは当然のこととして野球をやっていたんです。
小学生になるとスポーツ少年団という団体に所属して、夏は野球、冬はサッカーやバスケをしていました。プロを目指していましたが、高校野球で自分の力の限界を知りプロ入りをあきらめましたが、大学でも野球は続けていました。
いえ、実はアメリカに興味があって19歳の時にバックパッカー的なアメリカの旅をしていて、その時に知り合った日本の商社の方から興味があるならと誘っていただいていました。ですが、その方が交通事故で亡くなられて、就職も白紙になり、大学の先生に相談したところ、タイの会社を紹介してくれたんです。会社訪問したところ、すぐに来てほしいとことで、卒業した1990年の10月にタイで就職しました。木を加工して輸出する木材会社でした。
僕はもともと海外志向が強かったのです。建設大学校(現国土交通大学校)大学に在学していたのですが、大学の校風もそういう感じで、産業開発青年隊の隊員となる道もあり、先輩たちは当たり前のように海外で仕事をしていました。
タイに来てからすぐに野球をやりたかったのですが、タイではポピュラーなスポーツではないですから、いろいろ探して見つけたのが日本人会のソフトボール大会でした。ゼロファイターズ、ソムタムズ、ボンバーズなどが活動していて、ボンバーズに入団させてもらいました。僕はソフトボールをするために日本人会の会員になったんですよ。
左 : 2008年IBABoys南アジア軟式大会優勝。選手とハイタッチ
上 : 2004年バンコクサンダースの選手と青山さん
下 : 1994年ソフトボール大会でボンバーズ優勝
野球というこんな楽しいスポーツをタイの子どもたちが知らないのはもったいないと思ったんです。
経緯をお話ししますと、ミネベア(現ミネベアミツミ)の常任理事の榊原氏という野球好きな方との出会いがあって意気投合し、92年にタイアマチュア野球連盟とクラブチームJapanese Baseball Clubを設立しました。まずは94年開催の広島アジア大会に参加させようと考えてのことでした。出場して惨敗して、じゃあ98年のバンコクアジア大会までに立て直そうと、僕はコーチングスタッフとして入りました。99年のシドニーオリンピックは予選で出場権を得たのですが、また惨敗。これは10年計画で育てなければならないと思い到り、リトルリーグを立ち上げることになったのです。
アユタヤのミネベアの社屋の後ろの敷地を使わせてもらえることになって、グラウンドを作るところから始めて、2001年にリトルリーグ球団としてバンコクサンダースは出発しました。
タイアマチュア野球連盟を通じてチラシを配ったりして部員を募集したところ、練習初日の土曜日は60〜70人集まりました。ところが翌日は半減して、翌週練習に来たのはタイ人が1人、日本人は3人でした。その3人ともうちの子でした。
来なくなった理由は、暑いとか、タイ人の子とコミュニケーションが取れないとか、そんなことだったようです。それに練習に集まったタイ人の子どもたちはサンダルに短パン、ヨレヨレのTシャツ。偏見の目線を感じました。日本人の子たちはウェアも道具も自前のを持っているわけです。親御さんがタイの子たちと自分の子どもを同じチームでプレーさせたくないと考えたのでしょう。
その後はミネベアの社員の方がお子さんを連れてきてくれたりして、活動を続けていくうちに、海外遠征に行ったというような話を伝え聞くようになったりして、少しずつ入部者が増えていきました。
日本人はタイで生活させてもらっている。僕はそういう考えでいます。子どもたちとその家族が野球をツールにして交流していく中で、少しずつ感じ取ってもらえるようになっていきました。現在メンバーは35名です。
野球から僕はたくさんのものを受け取りました。野球を接点として大切な人との繋がりができたし、ここまで生きてこれたのは野球のおかげといってもいいと思っています。
野球は一人が累に出るとメンバーみんなで支えます。たとえ自分がいきなくても、チームのために1点を取るためにバントする。そこに戦術がありドラマがあり、そのプロセスが好きです。これからの人生の役に立つことが詰まっていると思いますよ。昔の教え子が就職して訪ねてきて、当時の指導が社会に出て役に立っていると言う。それに気がつくのは青年になってからですね。
退団する時、僕がノックして団員が受けながら心の中の思いを伝え合うんです。送別会はやらない代わりに送別ノックで心に焼き付ける。生真面目で辛いなんてことは言わない子が退団する時のことなのですが、たまにはブレーキをかけないと。ノーと言う勇気を持ってやっていったらいいとノックしながら言ったんです。そうしたらご父兄が号泣されていました。親と僕とは見方が違う。監督という立場で率直にものを言う。それが僕の役割だと思っています。
タイのどこでも、野球をしているのを目にする、そんな日が来ることが夢です。