きっかけは
タイ
vol.24
タイから繋がるライフストーリー
水越美枝子
さん
◆一級建築士 キッチンスペシャリスト
タイ生活で得た新たな視点。
暮らしやすさを日本の住宅に。
Q あなたにとってのタイとは?
人の輪の大きな力を
知った場所
Mieko Mizukoshi
1982年日本女子大学住居学科卒業後、清水建設(株)に入社。商業施設・マンション等の設計に携わる。91年に0歳の長女と共に帯同家族としてバンコクへ。「ジムトンプソン・ハウス」博物館のボランティアガイドとして活動する他、「わんぱくミーティング(現すくすく会)」に参加し、同会のメンバーらが発起人となり創設した「バンコク子ども図書館」の内装デザインを担当。97年に本帰国し、翌年に一級建築士事務所アトリエ・サラを共同主宰。著書に『40代からの住まいリセット術-人生が変わる家、3つの法則』『いつまでも美しく暮らす住まいのルール-動線・インテリア・収納』等。
- なぜ建築家の道を?
父の仕事の都合で何回か引っ越しを経験しており、子どもの頃から住まいに関心がありました。14歳のときに両親が自宅を建て、そのとき初めて設計図を目にしましたが、図面が形になっていく過程を目の当たりにしたことが興味を持つきっかけでした。
日本女子大の住居学科に進み、卒業後に清水建設の建設部に入社しました。会社が女性を専門職として採用するのは初めて、そんな時代です。主に商業施設やマンションなど大きな建物の設計を担当していました。
ちょうどバブル時代で、朝早くから深夜まで働く毎日でしたが仕事は充実しており、入社時は男女雇用機会均等法が制定される前でしたが、後に制度も変わって、先の見通しが立ってきた。そんなときに夫がタイに赴任することになったのです。直後に長女を出産しましたが、私はキャリアを危惧してついていくつもりはありませんでした。当時は育児休暇もなかったので、両親に助けてもらいながら仕事をしましたが、家族で暮らすのが自然だと思い直し、思い切って9年間勤めた会社を辞め、単身赴任していた夫のもとに9ヵ月の娘と行きました。
「ここでしかできないことをやってみたら」夫の言葉が転機に
- バンコク生活は?
子どもと向き合うだけの毎日で、これはちがうな、とんでもないところに来てしまったと…。
当時建築界は欧米志向で、私にとってバンコクは「魅力あふれる」とは言いがたい土地でした。初めての海外生活のストレス、離職した焦燥感で、帰国してもう一度キャリアをと悩んでいたら、夫に「長い休養期間だと考えて、ここでしかできないことをやってみたら」と言われ、その言葉にはっとしたんです。
バンコクは五つ星ホテルがたくさんあります。時間を見つけては居心地のいいホテルに行って、こんな空間を設計するにはどうしたらいいのだろうと観察するうちに気づくことがあり、住居にも応用できる手法を考えるきっかけになりました。
独特な佇まいのタイスタイルの建築にも目が留まり、タイの住宅を見学する会にも参加していたので、タイのシルク王と呼ばれるジムトンプソンの家を博物館にしたジムトンプソン・ハウスに行ったときには「これだ!」と。ボランティアガイドグループに入り、勉強会でタイや周辺諸国の文化や歴史、美術や宗教を学びました。研究発表をする機会もあって、高床式のタイ建築をテーマに選び、大学の図書室に通ってまとめたことも懐かしい思い出です。
子ども図書館をバンコクに!
- 子育て支援活動も?
長男をバンコクで出産して、少ない情報と日本との違いで苦労しましたが、そのとき出産や育児をサポートする母親グループにお世話になりました。当時活動されていた小児科の先生にお礼を伝えたところ、その気持ちがあるなら次の方に返してくださいと。それで現地の医師とのコミュニケーションや母乳ケアのお手伝いをしていました。
この子育て支援グループの中から、山中さんという方を中心に、子ども図書館プロジェクトが立ち上げられました。当時子どもたちが絵本に触れる機会は非常に少なかったのです。最初は夢物語のようなものでしたが、80名ものボランティアが集まり、さらに日本人会がスポンサーになり、場所はラケットクラブに決まり、寄贈本の受け入れなどを含めて3ヵ月の試行錯誤で作業を進め、1995年9月にバンコク子ども図書館をオープンすることができたのです。
ボランティアグループの中には、司書、学芸員、幼稚園の先生、造形デザイナーなど専門家がおり、それぞれの持ち場で力を発揮して、私は内装設計を担当しました。みんな真剣で、アンパンマンを所蔵すべきか否かは激論になり、私はそういう見方もあるのかと感心したものです。帰宅が夜遅くなることも頻繁で、アヤさんは仕事だと思っていたようでした。
本棚も子ども図書館にふさわしいものがなかったので、マピンというやさしい色合いの木でタイの業者に発注し、レイアウト変更に対応できるように移動家具にしました。部屋の真ん中に太い円柱があって、私はシンボリックな色を塗ろうと考えたのですが、山中さんたちは「図書館は本が主役なので色はいらない」というんです。それで柱もマピンと同じ黄色い色にすることに。そういう皆のこだわりの一つ一つが勉強になりました。2年後に日本人会別館ができて移転することになり、私は本帰国直前だったので別館用の図面を引いて帰国しました。
バンコク子ども図書館がスタートした頃の作業風景。右から2人目が水越さん
暮らしやすさを日本の住宅に
帰国した翌年に住宅の設計を中心とする設計事務所を友人と設立しました。
バンコクの住まいは欧米スタイルのコンドミニアムでしたが、日本の住宅と比べて住みやすいのは水回りの違いだと気がつきました。個室にトイレと浴室を兼ねたバスルームが付いていると、子どもを抱えて着替えを持って寝室と浴室を行き来しなくて済みます。それにトイレがついた来客用の洗面所があったので、お客があってもあわてずに済みました。ですから、「水回りのありかたを見直すことが、生活をしやすくする鍵かもしれない」と考え、そんな住宅を提案していこうと思ったのです。バンコクでの小さな子どもを育てる母親としての経験が、作る側ではなく使う側の立場に気づかせてくれました。
- 今後は?
人の生活が変化すれば住宅も変わってきます。今も母校の大学で教えていますが、私が培ってきたことを教えたり、本を書くことで心地よい住まいの作り方を伝えていきたいと思います。
- ありがとうございました。
取材・文/ムシカシントーン小河修子 写真/水越美枝子さん提供